11/01/2016

                 私のテレビ遺産、私の履歴書1

 

 私は1940年(昭和15年)8月22日に神戸で生まれた。1963年(昭和38年)4月に同志社大学を卒業し関西テレビに入社、関西テレビは1958年11月22日開局そのあとすぐにネット局のフジテレビも開局(1959年3月)、私はKTV開局5年目に入社したわけである。まだ開局の混乱の時期だったが、制作部オーディオ課、いわゆる音響効果の担当者としてドラマやドキュメンタリーなど様々な番組に参加, 一人前になって関西テレビの開局15周年記念番組では花登筐作「どてらい男(やつ)」の効果係を担当させて貰った。その年に結婚したが終生妻には多忙なために苦労をかけた。在阪の放送局の中で関西テレビと読売テレビはテレビ単独局でラジオを持たず、その分社員数も少なく大変忙しかった。関西テレビは間もなく開局60年を迎えるが、このところ視聴率が低迷して苦戦しているようだ。私のいた頃はとにかくフジテレビネットワークの力もあり元気で、視聴率もトップ、何度も視聴率3冠を獲得した(特に1985年~1994年は連続)素晴らしい局だったが今では様変わり、、、まこと、残念だ。

 現在、電通の社員の残業100時間越えによる過重労働での自殺が問題になっているが、今にして思えば私たちは当時100時間越える残業などいつものことで、良くあの環境で生きのびたものだと今更ながら少々の恐ろしさで当時を思い返す。さて、私の仕事の履歴書とは、、、

 音響効果の一担当として自分が担当したドラマを振り返ったら、局は時代が進むと共に生放送からVTR、モノクロからカラー、、、と目まぐるしく移り変わって行ったものだ。

 

             ☆ チーフで携わったドラマの数々 

 

1964年(昭和39年)ぼけなす人生 中田ダイマル ラケット 初音礼子 上方柳次・柳太

1965年(昭和40年)巳年のふぐはよく当たる 浪花千恵子 山茶花究 若原雅夫

          京の川 水上勉作  中村玉緒 山茶花究 磯村みどり

1966年(昭和41年)元旦一泊二日 中村鴈次郎 南都雄二 藤岡琢也 

          山本周五郎アワー 中村玉緒 東千代之介 河野秋武

          土性っ骨全17回 梅林貴久生原作の恨性もの 山茶花究 平井昌一 小倉康子

                                    1966年11月22日火曜日夜10時からの番組視聴率は歴代高視聴率第7位の36.7%を挙げた

1967年(昭和42年)うどん これも恨性もの全17回 松山容子 大友柳太郎 森乃福郎

                            1967年5月30日火曜日夜10時からの最終回の視聴率は関西テレビ歴代高視聴率番組第2位の49.3%を挙げた

1969年(昭和44年)赤ん坊夫人 京マチ子 天知茂 高橋悦史

1972年(昭和47年)とにかく仁鶴 松福亭仁鶴 阿吾十郎 東洋朝日丸

          子母澤寛作 父子鷹 若林豪 音無美紀子 島田正吾

          子母澤寛作 おとこ鷹 若林豪 浜畑賢吉 渡辺美佐子 岸部シロー 

          勝海舟~父子鷹・おとこ鷹 総集編~ 若林豪 浜畑賢吉 

1973年  (昭和48年) どてらい男(やつ) これも恨性もので 西郷輝彦 田村亮 由美かおる 本郷功次郎

                         大村崑 高田次郎 沢本忠雄 中村メイコ

                    ドラマの単発作品は少なく、連続ものが殆どで、中でもどてらい男は3年半181回つづいた。                     

                                 花登筐作で作曲は中村メイコのご主人の神津善行、録音スタジオは東京青山のアバコスタジオで                   

                                行われたので毎週東京へ日帰り出張での音楽録音だったが、しんどかった。

                                            どてらい男の1975年12月7日日曜日夜9時からの激動編の視聴率は歴代高視聴率第12位35.2%を挙げた。

                                            尚ここに挙げる視聴率の数字はKTV50年史に発表された視聴率で、第1位は1985年のヤクルト阪神戦野球中継で56.7%で、

                                            2位がうどん49.3%、3位が1984年大阪女子マラソン45.3%である。

などなど.....思い返すと本当に沢山の記憶に残るドラマを作らせて貰ったが、これ以外に多数の単発作品もあり、先輩のお手伝いで仕事した番組、いわゆるアシスタントとしての作品など数知れない。連続ものドラマの番組制作の合間には、報道番組やドキュメンタリー、ニュース・ショー、ワイド・ショー、スポーツ番組などなど...ナマや録画で効果担当者として数多くの番組を作り、寝る間もないような忙しさを送った。

今その他の番組、報道番組の効果を担当した中で、特に懐かしく思い返される作品に

1970年昭和45年 ドキュメンタリー「母と地球・サイゴン未亡人」(ベトナム戦争を取り上げた)              

         北林谷栄ほか  

1972年昭和47年 ドキュメンタリー「冬の海」(部落問題を取り上げた)小池朝雄ほか

の2番組があるが、これらで民放大賞(日本民間放送連盟賞)を戴いたことは、特に忘れられない思い出だ。

 

 ここではドラマ以外の番組(報道番組など)について、詳しくは次の機会にしたい。 

 叉、これらの効果の担当をしたあと、今度はディレクターやプロデューサーとして頑張ったが

 それらの作品についても次の機会に紹介したい。 

 

 関西テレビは今カンテレという愛称でイメージを新たにしようとしているが、私たちが入社して

間もなくは「母と子の関西テレビ、8ちゃん、或いはカンテレ」と言って視聴者に親しまれていた。

その名残?でもないだろうが、今イベントで下のようなお子様向け?の企画をも立ち上げている。


 

                   関西テレビ放送

                                                      恐竜博2016

 

関西テレビのオーディオ・マン(音響効果係)アシスタント(チーフの次のセカンド)として働いた、その中でも特に印象深い作品に、、、

 

1963年昭和38年

         街の下にも街がある ミヤコ蝶々 南都雄二 曾我廼家明蝶 藤田まこと

         2000人の吹奏楽 指揮/朝比奈隆

                         欲ぼけ色ぼけ 中村扇雀 浪花千栄子 青山京子 若原雅夫 茅島成美

         宝塚民話劇場 富士野高嶺 藤里美保 山吹まゆみ

         瀬戸内海4丁目 五月みどり ジョージ・ルイカー 茶川一郎

         仮面の女 朝丘雪路 夏目俊二 夏川かほる 斎藤達雄

         ああ美しき人ゆえに 月丘千秋 若原雅夫 林美智子 徳大寺伸 園佳也子

         南里文雄半生記・限りなき愛情 中原美紗緒 南原宏治 鳳八千代 遠藤辰夫

         浪曲鉄砲光三郎ショウ 鉄砲光三郎

         愛のうず潮 水戸光子 若原雅夫 山東昭子 稲垣美穂子

         ドレミファ君とソラシドさん 中森孝子 筑紫まり

         夫と妻シリーズ 南里文雄半生記~限りなき愛情~ 中原美紗緒 南原宏治

         母の初恋 若原雅夫 黛ひかる 雪代敬子 東恵美子

         山の宿 森雅之 荒木雅子

         虎の子作戦 若原雅夫 天知茂 高松英郎 市川小金吾 青山京子       

         千日お笑い寄席 タイヘイトリオ 秋田Aスケ・Bスケ 浮世亭とん平

         三百六十五夜 杉浦直樹 夏目俊二 久保菜穂子

         その影を砕け 三田村元 藤田佳子 市川和子 北原義郎

         妻は告白する 松本朝夫 高千穂ひづる 戸浦六宏 露口茂

         ザ・タカラヅカ 新珠三千代 淀かほる 那智わたる 天津乙女 春日野八千代

         コメディ・忍者番号17 二瓶孝一 森乃福郎 三木のり平 茶川一郎 南都雄二

         憎いひと 岡田真澄 朝丘雪路 淀かほる 谷幹一

         ナイターコンサート ダークダックス 弘田三枝子 倍賞千恵子 坂本スミ子              

         男の銘柄 久保菜穂子 片山明彦 高森和子 入川保則

         公開コメディ・ノーベルお笑い劇場 茶川一郎 小桜京子 ト二ー谷 

         

などなどがあるが、私が入った年にはまだ関西テレビは開局5年目で大変忙しく、その中でしごかれて段々と一人前の効果マンとして育った。アシスタントとしてかかわった中でも特に印象深い作品に

 

1964年昭和39年 しのぶという女 中村玉緒 曾我廼家明蝶 池部良

         雲をつかむ男 長門勇 桜むつ子 小山明子 天知茂

         猫と庄造と二人の女 実川延若 浪花千栄子 鳳八千代 野川由美子

         松竹新喜劇 ついて来い!藤吉 渋谷天外 石浜佑次郎 藤山寛美       

         江島生島 松本幸四郎 山本富士子 市川染五郎  ...などなど

                           (この年に「東京オリンピック」が行われ、「新幹線」が走り出した)

1965年昭和40年 宝塚51 春日野八千代 富士野高嶺 神代錦 上月晃 

         ミスターシャネル 天知茂 北原義郎 富士真奈美 三原葉子

         沙羅の門 藤純子 中村鴈次郎 森光子 千秋実 など多数、、、

                         (そして一人前の効果マンとなり)

 

があるが、寝る間も惜しんでと言おうか、新人の私はこき使われて成長し、次第に責任あるチーフとしての効果係マンへ育っていった。ニュース番組やスポーツ番組の素材はまだフィルムが主だったり、ドラマ等ナマやモノクロ録画の時代で、しばらくして20インチビデオ録画、更にカラー番組化へと変わって行った。皇太子のご成婚、東京オリンピック、万国博などなどの国家行事、そして、時代はアナログからBSデジタル、そして今、、、              

         

 

            私の現役の時代の三つのエピソード・メモリー

 

Ⅰ ユメノスケ

 

 私が入社したのは局の開局5年目で、まだ始まったばかりのテレビ放送の現場は大変忙しかった。来る日も来る日も残業で次々新しい番組に取り組んだ。まだナマ放送が多く、VTR編集も余り出来ず大変過酷な労働状態、時間外が100時間など当たり前で、皆疲れていてもそれでも希望に満ちて仕事に取り組んでいた。そんな頃、Tさん、局の先輩で歳は私より10歳も上の人、疲れて本番中に居眠りする。その人はよくビデオ撮りの決まった番組で居眠りされた。そんな人に、その番組のディレクターが何時も「ユメノスケ!」と皮肉一杯で彼のことを呼んでいたことを今思い出す。そんな遠い思いが今蘇る。因みにその番組はドラマ「仮面の女」、朝丘雪路が主演でDはHさん、先輩とはTさんだった。皆が残業しながらキツかったがコツコツと今のテレビを作り上げた。過労死もせず、、。

Ⅱ 鶏のSE ’コケコッコー’

 

 効果の仕事の現場で新米の私が大変驚いたことの一つは先輩の仕事ぶり。ドラマの中での朝を表現するための効果音作りをしていた所、その先輩のOさんはアナブースのマイクの前で破れ団扇を持って脇の下でバタバタと振りまわし、地声で’コケコッコー’と鳴かれた。私はびっくり。まだラジオの頃の効果音係のテクニックが残っていたのだ。私の頃は実音をテープレコーダーに録ってそれを使う時代に入っていたので、目の前の異様な姿に感動と同時に驚いた。ビックリポンや‼朝だ~~。

(私自身では雪の上を歩く主人公、土性っ骨というドラマのワン・シーンで、カタクリコでギシギシと音をさせて、本物らしい歩きの音を当てたことを思い出して懐かしい。)

Ⅲ ミヤコ蝶々さん

 

 新しく始まったナイトショーという番組に効果の担当者として参加していた時のこと、夜の11時過ぎから全国放送ネットのナマ番組の第1回目、何事も無く淡々と笑いの内にエンディングを迎え、私がエンディング・テーマをスタート、司会の蝶々さんもサヨナラ、サヨナラ、とご機嫌で愛嬌を振りまいて終わりになった。ト、、トコロガ、、、ナニ、、、?まだネットが閉じてイナイ‼シマッタ‼1分早終させてしまったのだ。(私がスタート時間を見間違えたのだ!)蝶々さんは何のことか未だ解らず「なんや??どうなったんや?え?え???」と慌てていた。彼女はさすがコメディアン・・青くは成らなかったがドタバタのうちに、混乱の内に、なんとなくオモロ~ク?番組は終了。まずい番組スタートとなった深夜の12時頃のこと、皆は面白がって混乱をプラスに感じてくれた。私は皆に謝り、サブ・コントロール・ルーム(サブという)の席からスタジオに下り蝶々さんの所に出向いた。彼女はメーク室に行っていたのでノックをして部屋に入ったら、蝶々さんが「お早うございます!」と元気なご挨拶、(テレビや舞台では朝でなくとも初めて会ったときは夜でもそう挨拶する)私はお詫びしたが彼女は気良く赦してくれた。若気の至りの苦い思い出、今思い出してもぞっとする。幾つもの失敗をして、、、今この歳まで、生きている。

 

こうした現役時代だったが、その中でも「がんばれ!実年」という医学番組で代理店の電通大阪支社の皆さんとは何年にも渉って良い仕事をさせて頂いた。そんな電通で大きな事件が起こったが、こうした問題の過酷な労働環境は、今も昔も変わらない、日本の企業の深い闇の部分かもしれない。

 社員自殺前、電通へ相次ぎ是正勧告 長時間労働めぐり

                                                              千葉卓朗 2016年10月20日08時50分

広告大手、電通が2014~15年に、社員に違法な長時間労働をさせたとして東京と大阪の労働基準監督署から労働基準法違反による是正勧告を相次いで受けていたことが分かった。2度の勧告を受けた後の昨年末に、過重労働が原因で女性新入社員が自殺しており、勧告後も違法な長時間労働が改善されず、常態化していた可能性がある。

 電通によると、14年6月、関西支社(大阪市)が天満労働基準監督署(同)から是正勧告を受けた。女性社員が自殺する約4カ月前の昨年8月14日にも、東京都港区の本社が三田労働基準監督署(東京)から是正勧告を受けていた。

 いずれも、労働時間の上限について定める労基法32条違反による是正勧告だった。労基署に届け出た時間外労働の上限を超えて、社員を働かせていたとみられる。電通広報部は取材に対し、「詳細についてはお答えしかねます」と回答し、違反の内容は明らかにしていない。

 亡くなった新入社員は、本社勤務だった高橋まつりさん(当時24)。昨年12月25日に過労自殺し、先月末に労災認定された。三田労基署は、高橋さんの1カ月(昨年10月9日~11月7日)の時間外労働が105時間だったと認定した。電通が労基署に届け出た上限の時間を大幅に超えており、勧告後も違法な長時間労働がなくなっていなかったことになる。

 東京労働局などが電通の本支社や主要子会社に立ち入り調査を実施し、刑事事件としての立件を視野に、全社的な労務管理の実態を調べている。(千葉卓朗)

 

   厚労省が    電通を捜索 違法長時間労働、強制捜査に

                                                           2016/11/7 9:56 (2016/11/7 10:05更新)

電通の東京本社に家宅捜索に向かう東京労働局の労働基準監督官ら(7日午前9時26分、東京都港区)=共同
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電通の東京本社に家宅捜索に向かう東京労働局の労働基準監督官ら(7日午前9時26分、東京都港区)=共同

 厚生労働省は7日午前、複数の社員に違法な長時間労働をさせていた疑いが強まったとして広告代理店大手、電通(東京・港)に労働基準法違反の疑いで家宅捜索に入った。昨年12月に過労自殺した新入女性社員、高橋まつりさん(当時24)が労災認定されて表面化した電通の長時間労働問題は強制捜査に発展した。

 遺族側代理人によると、今年9月に労災と認定された高橋さんの残業時間は昨年10月9日~11月7日で約105時間。これを受け、東京労働局の過重労働撲滅特別対策班などは電通の東京本社と3支社、主要5子会社を労働基準法に基づき立ち入り調査していた。

 その後、複数の社員についても同様の違法な長時間労働をさせていた疑いが強まり、強制捜査が必要と判断したとみられる。

                     電通社員過労自殺から1年 「働く意識変わって...」母親が手記

フジTV系(FNN) 12/25(日) 18:14配信

大手広告会社「電通」の新入社員だった、高橋 まつりさん(当時24)が、過労のために自殺して、25日で1年となる。
まつりさんの命日にあたり、母親が、悲痛な気持ちをつづった手記を公表した。
手記には、「クリスマス・イルミネーションで、きらきらしている東京の街を走って、警察署へ向かいました。うそであってほしいと思いながら」などと、つづられていた。 2015年12月25日、長時間労働の末、自殺した、電通の新入社員・高橋 まつりさん。命日を迎えた25日、母親の幸美さんが、手記を公表した。母と娘が、顔を寄せ合って笑顔を見せる、その奥には、中国・万里の長城。まつりさんが東大在学中、中国に留学していた時に撮影された、母親との記念撮影だった。
手記には、「まつりは、ずっと頑張ってきました。自分が、困難な境遇にあっても、絶望せず、諦めないで生きてきたからです」とあった。
電通にも、将来への希望を抱いて就職した。在学中のアルバイト先の元上司に送られたメッセージ。2014年4月7日、高橋さんのフェイスブックには、「就活中、いろいろ迷いましたが、やはりマスコミ関係の仕事であること、職種の異動があり、できることの幅が広いこと、新しいコンテンツをつくり出していけることなどを重視して、会社を選びました」とつづられていた。しかし、入社数カ月後には、1カ月に105時間にものぼる、時間外労働などが、まつりさんを追い詰めていった。
2015年11月3日、高橋さんのツイッターには、「生きるために働いているのか、働くために生きているのか、わからなくなってからが人生」とあった。
母・幸美さんの手記には、「まつりは、あの日、どんなにつらかったか。人生最後の数カ月が、どんなに苦しかったか」、「朝、目覚めたら、全て夢であってほしいと、今でも思い続けています」などとつづられている。まつりさんが、労災と認められて以降、電通は、午後10時以降の消灯を始めたほか、労働局が、家宅捜索を行うなど、日本人の働き方が、今、あらためて問われている。母・幸美さんの手記には、「まつりの死が、日本の働き方を変えることに、影響を与えているとしたら、まつりの24年間の生涯が、日本を揺るがしたとしたら、それは、まつり自身の力かもしれないと思います。でも、まつりは、生きて社会に貢献できることを目指していたのです。日本の働く人、全ての人の意識が、変わってほしいと思います」とあった。

最終更新:12/25(日) 18:14


      Dentsu was warned about overtime four months before employee’s suicide

                                                                                                        Kyodo          

                                                                                                                                                                       Kyodo, AP           

    Dentsu drops ‘family-friendly’ tag amid ‘karoshi’ scandal

                                                                                                          Kyodo          

          Nearly 40% of Japanese sleep less than six hours a day

                                                                                                     JIJI          

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          Ad giant Dentsu declared Most Evil Corporation of the Year

                                                                               by Staff Writer           

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          Overwork deaths put spotlight on Japan’s ‘black companies’

                                                  by Staff Writer             

     Dentsu president resigns amid mounting pressure over suicide of young employee

                                                                                                   Kyodo          

Dentsu chief Ishii resigns amid mounting pressure over employee’s suicide

                                                                                                         Kyodo

   IOC: All options on table in cost-cutting blitz for Tokyo 2020 Games

                                                                                                                                                                           AP           

The panel proposed moving the rowing venue to Miyagi Prefecture, 400 km north of Tokyo, and switching the volleyball site to Yokohama Arena instead of a new gymnasium in Tokyo. Christophe Dubi, the IOC’s executive director of the Olympic Games, said the group discussed that option and it remains a possibility. “The options remain,” Dubi said, referring to the potential relocation of the volleyball and rowing sites. “The purpose of this working group was not to decide. The purpose was to study and ask further questions that will help fully clarify the situation for the benefit of all parties.” Dubi said the four-party group will make its decisions at the end of the month. While the organizing committee has balked at the cost-cutting ideas put forth by new Tokyo Gov. Yuriko Koike’s review panel, the IOC seems willing to listen. “When you have one objective — and it is to organize the best games possible and to leave the most possible legacy for the citizens of Tokyo, the vision of Tokyo — any effort that goes in this direction is welcome,” Dubi said. The proposal to move the rowing venue to an existing facility in Miyagi came after the projected cost for the original “Sea Forest” venue on Tokyo Bay soared to nearly ¥50 billion ($480 million), seven ti頃のmes the initial estimate.

                 Pikotaro’s ‘PPAP’ sets Guinness World Record

Comedian Pikotaro’s music video “Pen-Pineapple-Apple-Pen” was recognized by Guinness World Records on Oct. 28 as the shortest song to make the U.S. Billboard Hot 100 singles chart. The music video, which lasts just 45 seconds, entered the chart at 77, and it is the first time in 26 years that a Japanese artist has made the U.S. chart. The video has been viewed more than 67 million times since hitting YouTube in August, going viral on social media after Canadian pop star Justin Bieber tweeted that it was his favorite video on the internet. At the Foreign Correspondents’ Club of Japan, Pikotaro, who revealed that he spent only ¥100,000 to make the video, said that he hopes to do a world tour, though he doubts the global craze will continue.

 

    そしてテレビはまた大きく変わろうとしている。地上波、デジタルから次の世代へ

 

カンテレの視聴率は惨憺たるもの、20傑で、
カンテレの視聴率は惨憺たるもの、20傑で、

    4K・8K、民放も試験放送=18年の実用化目指す

                                                                                 (時事通信) 17:34 2016/12/01

 在京民放キー局5社などで構成する放送サービス高度化推進協会は1日、超高精細な「4K」と「8K」の試験放送をBSで開始した。毎日1時間、国内外の自然や歴史番組、空撮映像などを放映する。NHKが全国各地の放送局などに設置している専用テレビで視聴できる。
 4Kは現在のフルハイビジョンの4倍、8Kは16倍の解像度。NHKは8月に試験放送を始めており、リオデジャネイロ五輪の開会式や閉会式などを生中継した。総務省は2018年の本格放送開始を目指しているが、4K・8Kに対応した受信機はまだ市販されていない。

            NHK:2波「同時配信」の意向 受信料支払い世帯は無料 

NHKは13日、放送と同時に番組をインターネットで配信する「同時配信」について2019年にサービスを開始し、受信料を払っている世帯には追加負担を求めない方針を明らかにした。同日開かれた総務省の有識者会合で示した。NHKが同時配信の具体案について明らかにするのは初めて。

 NHKによると、20年の東京五輪に向け、前年にサービスを開始する。対象は、総合とEテレの地上波2チャンネル。衛星放送はスポーツ中継番組が多く、「権利確保の課題などで番組の約6割が配信できない」として当初は対象外とする。

 会合に出席した今井純専務理事は、同時配信の財源について、「必要となる費用の適切な負担の仕組みを整備する必要がある」と述べた。同時配信だけを利用する場合の新たな料金を設定する構え。

 実現には放送法の改正が必要で、総務省は有識者会合の議論を踏まえ、改正案を策定する見通し。同日の会合では日本民間放送連盟がNHKの同時配信実施について「国民的な議論はいまだ不十分。結論ありきで制度改正を進めることは極めて不適切」と慎重な検討を求めた。

 一方、出席した高市早苗総務相は「民放各社に同時配信の強いニーズがあるなら、NHKが先導的な役割を果たすという考え方もできる。将来的にNHKと民放で共通の基盤を作り、初期投資やランニングコストを抑えるモデルが作れるかもしれない」と述べ、各局の意向を確認したい考えを示した。【丸山進】

 

 

                  熊本大地震 から 半年

 

 熊本地震、本震から6か月…鎮魂の祈り

 熊本地震は16日、本震の発生から6か月となった。2度目の震度7を観測した本震では、家屋の下敷きになるなどして41人が亡くなり、直接の死者は前震と合わせて50人に達した。被災地では住民らが犠牲者に黙とうをささげ、復興への決意を新たにした。熊本県南阿蘇村では、本震で阿蘇大橋が崩落するなど大規模な土砂崩れが相次ぎ、直接の死者は16人に上った。立ち入り禁止となっている東海大阿蘇キャンパス近くにある小学校跡地では、灯籠などに明かりをともす集いが開かれ、学生や住民ら約200人が犠牲者を悼んだ。

 

ボランティア仲間、中塚さんの展覧会へ行った
ボランティア仲間、中塚さんの展覧会へ行った

Osaka’s landmark Tsutenkaku tower turns 60

                                                                                          Kyodo           

kaku tower on Friday as the landmark regained its popularity in recent years with a growing number of foreign tourists drawn to the retro allure of the relatively short observation tower.

 

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Caroline Kennedy calls ambassador role in Japan her ‘greatest privilege’ in farewell message

                                                                                by Staff Writer J             

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